ようやくすべてが終わったような気がする。LSE自体の学生生活は9月で終わりではあるのだが、6月で基本的にはすべてが終了し、卒論の時期に入る。それにしても最近までテスト勉強やエッセイなどで本当に忙しかったように思う。
卒論がまだあるのだが、LSEの学びを通して感じたことがある。それは別にどんな大学を卒業したとしても、ブライトフューチャーは待っていないんだなということ。どこの大学でも卒業して、活躍できることは間違いない。ただ、いい大学を卒業することで、成功する確率が高まるだけなのだと。また、一方で、いい大学を卒業して、誰もが羨むと思うような仕事につけたとしても、それが必ずしも幸せではないことに気がついた。
やはり、学部生、院生と、自分の理想とするような状況を常に追いかけていたのだが、職業となると、自分の性格、会社とのフィット感などを熟慮しなくてはならない。また、真剣に選ぶとなると、どうしても保守的な考え方が勝ってしまう。LSEの修士とかをやっていると、どうしても自分の能力の限界というか、周囲に勝てない部分があることに直面したりするわけで。例えば、北京大学や清華大学出身とかの人間のメモリーは半端ではなく、「一読したら全部なんでも覚えられちゃうんだよねー」みたいな奴がいて、2日でテスト範囲であるすべての英文を丸暗記したりする。単純に言えば、コピー機のようにスキャンができる奴がいる感じだ。こういうのを見ていると、学部生の就活の時の東大の理系院生とか医学部生を思い出す。コンサルを受けていると、よく一緒になる。大半の理系院生はどちらかというと”鍛えられている”という印象なのだが、一部の理系院生だったり、医学部生はまずレベルが違うと感じたことがある。清華大学出身のこの話はその経験を思い出した。この経験から、自分の競争するところは別にあるし、こうした勝てない部分で戦っても意味がないなと思う次第だ。
それでも、こうした天才たちとやりあって、何とか自分の就きたかった仕事というものにたどり着いてきたものの、これからメモリーの能力だけでなく、ヒューマンスキルに優れている奴達ばかりと張り合っていかなければならないとなると、精神的に疲弊する気もしなくもない。僕はどんなに頑張っても秀才くらいにしかなれないと思わさせられる次第である。この中でやっていくにはいかにバランス感のある人間になっているかが重要であることに改めて気付かさせられる。少なくとも自分のタイプということにあっては。天才ではない自分は努力をし続ける必要がある。
自分が馬鹿であるということ、そして謙虚であることの大切さを忘れず今後もやっていきたいと思う。