知能の発達とその継続性 |
最近、LSEのパブリックレクチャーで面白いファインディングスについて話していた。”Culture and Intelligence”というものだったのだが、基本的に英米と日本及び中国人にフォーカスした話であった。レクチャラーはアメリカ人で、イギリスとアメリカ、アメリカと日本との比較にフォーカスという感じだ。
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2016年 05月 08日
最近、LSEのパブリックレクチャーで面白いファインディングスについて話していた。”Culture and Intelligence”というものだったのだが、基本的に英米と日本及び中国人にフォーカスした話であった。レクチャラーはアメリカ人で、イギリスとアメリカ、アメリカと日本との比較にフォーカスという感じだ。 まず最初に英米の知能に関する研究だが、現代人は、50年前と比較して格段に頭が良くなっているらしく、IQが28%も向上しているとのこと。つまり、50年前は100だった平均が128になっているという感じだ。これは、現代に至るまでの技術の進歩や発展による文化の洗練度が人間の脳を発達させているようだ。つまり、これが事実だったとすると、日本で”常識”とされていた、「昔の人は頭が良かった」という発想は否定されることになるし、昔は良かったと思いたい人が妄想しているにすぎないという結果になるように思う。普通に考えたら当たり前のことなのだが、研究結果が出てくるとなると、より具体的なエビデンスとなってくるだろう。 次に、日本人とアメリカ人の”知能”に関するものだが、若い日本人は同世代のアメリカ人と比較して、より頭が良いとのこと。例えば、会話の時でも、話の文脈を理解する力が60%高いという研究結果が出ているようだ。ただ、一方で、日本人は若い時がピーク(おそらく大学受験まで)で、その後は成長が鈍化し、60代くらいになってくると、既にアメリカ人に抜かれているとのこと。つまり、日本人とアメリカ人を単純な言葉で言い表すならば、日本人は早熟、アメリカ人は晩熟という形になるのかもしれない。ただ、考えてみれば、これは元々の”nature”というよりも、社会制度であったり、教育の仕組みであったりというところが大きいのかもしれない。 例えば、日本の大学受験までの場合、高校までの教育というのは、先進他国と比較して、中間かなと思う。これはリサーチファインディングスとして扱うことは比較的難しいように思うのだが、ただ、感覚としては、学業とスポーツの両方に取り組むように構成されているように思うし、上の中学高校になればなるほど、そうしたことの重要性がわかっているようにも思う。ただ、散見されるものとして、これはどのレベルでいつ使うのだろうか?と思うようなレベルの勉強が多いことと、知識の運用性を問う学習が少ないことが挙げられるだろうか。東大や慶応などの場合、暗記に加えて知識の運用性を問うような問題が出されており、かつ、実社会にも用いられるような問題を解くことが多い。一橋もそんな感じだったかな?一方で、早稲田の問題などは暗記偏重にも思えるレベルの問題ばかりだったような気がする(今は知らないけど)。他の大学はそもそも受験をしていないというか、過去問すら見たことがないので、ちょっとわかりかねるレベルかも。つまり、大学受験において問われているレベルの問題が、実社会においても、アカデミックの分野においても両方においてほとんど使えないようなレベルにあることがはっきり言って問題なのではないか?そんな風に考えさせられる。具体的には、中学の数学が”完璧”に理解できれば、実は高等教育のレベルで使えるレベルにある。人文系科目は別として、理系科目は必要なレベルはオーバースペックに近い形だ。むしろ、その時間があるんだったら、中学卒業の時点で大学に入学した方がいいのではないか?そんな風に思わなくもない。しかしながら、それが日本人の知能が高いといったファインディングスにつながっているのだろう。 一方で、こうした中等教育のレベルが世界の水準と比較して高いにも関わらず、日本人が伸び悩む理由は比較的簡単に解釈できるように思う。以前からこのブログで述べてきたように、”高等教育及びアカデミックに対する考え方”がこうした日本人の考え方に影響を及ぼしているように思う。近年ようやく修士に進学するという考え方が世間に浸透しつつあるものの、社会科学及び人文学に関しては理解が浅いように思う。大学院は研究者になる人のためのものという固定化された概念だったり、MBAは役に立たないとか、机上の空論だとか経験していない人が”主観的に”いったことが当たり前のものとして理解されている社会が普通にまかり通っているところあたりが本当に信じられないのだが、実際に存在する。また、博士課程というものが、”象牙の塔の住人”という扱いを受け、世間からの風当たりが強いことも日本人の限界を感じる。こうした専門性の高い人間が社会では生かされていくべきであり、また、理解される必要があるのだが、要は、”使う人間(経営層だったり、外部機関だったり)そのものの人材不足”によって、こうした現状がまかり通っているのではないかと推察される。 しかしながら、欧米だけでなく、日本を除くアジアの多くでは、上の学位をとることが良いことだとされているようにように思うし、こうした高い人材を生かす機能が整っているようにも思う。シンガポールや香港といったところを除けばアジアではまだまだ高学歴が活かせる仕事は少ないかもしれないが。 つまり、何が言いたいかというと、アメリカでは専門職大学院や大学院博士課程というプロセスだけでなく、EMBAや社会人プログラムを受けることが自分のキャリアステップのために必要となるし、専門性を高めていくことが良いという考えが浸透している社会が結果的にアメリカ人の知能を高めることへ一役買っているのではないか、そんな風に思わなくもない。 実際にパブリックレクチャーの中で言っていたことだが、知能そのものにアジア人と白人との間では差はなく、単純に”文化”による差が大きいようだ。ただ、白人と黒人を比較した場合は、どうしても黒人の方が元々の知能面で劣っている部分があるかもしれないらしい。この問題はかなりセンシティブな問題であるため、ものすごく丁寧に話していた。おそらく本当はこうした問題が浮き彫りにされていたとしても、発言してしまい、動画に流れてしまうのは注意しなければならない問題なのだろう。 このレクチャー以外にもたくさんLSEには見聞を広げる機会がある。より多くのことを吸収できればと思わなくもない。
by lse_keio_sfc
| 2016-05-08 22:35
| 思考
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