2015年 08月 29日
脆い"優秀"という言葉 |
最近思うことがある、それはいかに"優秀"という言葉が曖昧なものか、ということである。優秀というのは、同じ環境にいて、同じ言語を話し、同じような人間がいる中で、"ある一定の基準"において、パフォーマンスを出すことによって、認知される現象なのではないかと思う。つまり、基準が違えば、優秀の概念もそれに応じて変わる、ということであると最近感じた。
例えば、留学すると困難に直面することになるように思う。海外経験のない人間が初めての留学をすると、確実に困難に追い込まれる。日本でどんなに優秀で、誰もが認める存在であったとしても、ゲームが変わればパフォーマンスは一切出せなくなる。これは間違いない。英語圏で英語圏の基準で進める授業において、英語ができないこと、異文化理解が浅いことが何を意味するのかというと、ミスコンセンサス、ミスリード、ミスリプリゼントなど、あらゆる問題を生み出す。数字系の科目やコースであれば、そうした問題に直面することは少ない。だが、経済学を除く社会科学系だと確実に英語で何でも表現しなければならない。定量分析をするパートもあるが、基本は定性分析であり、その定性的なものを言語で表現しなければならない。これは想像を絶するほど難しい。まず、表現力が10分の1になる上、読むスピード、理解力、それら言語に関する能力がいきなり下がる。これがどういった結果を生むかというと、まず、何もできないやつになる、ということだ。
いくら素早く問題点を発見し、解決につながる仮説を立て、検証するということができる人間でも、言語が変わった瞬間、理解力が落ちるため、理解が中途半端になり、全くパフォーマンスを出せない上、回答がズレたものになってしまう。こいつ何言ってんの?状態だ。これはそんなの当然じゃないか、とか、言語違うしな、とかそれ以上のインパクトが精神にある。いつも本質的な回答を心がけている人間にとって、本質からずれてしまう回答をしてしまうというのは精神にくる。自分が積み重ねてきた自信が一気に崩れる瞬間だ。拘泥していても、自分の精神を追い込むだけなので、何もできない自分を認めることしかできない。これは本当に難しい。しかし、これが現実なのだと感じる。もちろん、時間が経ち、英語力が向上してくれば、特に問題ないようになってくるのだが、それまでは本当に優秀な人間がダメになる瞬間というのを目の当たりにするきっかけとなるし、自分もそれを実感しなければならない。そのとき、いかに優秀という概念が脆いものなのだろうか、ということを実感する。
優秀という概念、それは同じ基準で同じnormの範疇にいる、そうした狭い範囲の中でしか存在しない、極めて曖昧なものである、そう感じる次第である。
by lse_keio_sfc
| 2015-08-29 06:02
| 思考
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