今回は母国語を使わない国で起こることについてである。日本にいるときはあまり考えなかったのだが、母国語で何かを考えるときと母国語以外で考えるときとでは、かなり生産性が異なってくる。日本語はかなり機能面で優れている言語で、深く思考ができるようになっている。表現がたくさんあるし、母国語で学問や専門性のある物事に取り組むことができる。これは世界的に見るとかなり稀で、1億人しか話していない言語にもかかわらず、これほどの機能を持った言語は珍しい。そのため、僕らは高等教育まで英語に触れずとも教育を母国語で受けることができる。もちろん、英語もそうしたことができる言語なのだが、第二ヶ国語になってしまうため、どうしても生産性が下がってしまう。
生産性が下がる原因はコミュニケーション、精通度、など、挙げればきりがないのだが、その第二ヶ国語での学習によって、考えられることの範囲が狭まっている。狭まっているだけではなく、浅くもなる。これは非常に良くないことであることが自分でもわかっているし、早く打開しなければならないものなのだが、簡単にできない壁がある。それは道具としての英語であり、ある程度までできるようになれば、それは本質的な問題ではない。という前提があるのだが、思ったことが表現できないとき/表現できることができないときの場面に直面すると、ストレスが溜まってしまう。それを解決しようとすると、結果として手段の目的化につながっていっているような気がする。
そうして本質的なことではないことについて考える、勉強することにより、機械的な作業が増加し、何も考えなくて良くなってしまう。本来なら、そうしたことがより生産性の高いものに時間が使えるはずなのに、こうした無駄な英語への時間/お金を投資しているように感じる。現代では日本語ももちろん大事なのだが、英語での大半の作業をしなければならないものへと変化しつつある世の中では、そうした困難はさけられないとは思いつつも、この機械的な作業がサンクコストにつながっているのではないかと思い始めると、なかなかストレスが溜まる。つまり、現状でいうと、スパイラルに陥っているイメージだ。
母国語ではない言語を使うことは自分のできることの制限につながってしまう。だからと言って、英語から逃げるわけにはいかない。結局、英語を母国語レベルまでとはいかないまでも、サンクコストであったとしても、理解、表現がそれに近いものにしていきたいと心から思う。